chappy(京大教育) さんの投稿記事
先日、あるレストランで食事をしていたところ、三人家族が隣のテーブルに座った。そのうち、父は医師で娘も医大に在学中のようだった。なぜ、私がそれを分かったかといえば、三人とも大きな声で、自分たちが医師一家であることに纏わる名声やお金の話をずっとしていたからだ。しかも、わざわざ周りにこれ見よがしに聞かせているかのように、私には感じられた。品がないというか、何かとても切なく感じた。
私はここで、その嫌な時間を思い起こして、愚痴をこぼしたいのではない。教育に関わる出来事だと思ったので取り上げてみた。私が思うに、例えば医師になること、医師であること、そして医師になるために勉強することはそれ自体「偉い」ことでも何でもない。私は教育に携わっている以上、「人間は何のために勉強する必要があるのか」を自らに問いつつも、その問いを生徒達にも投げかけていきたい。古めかしい考え方かもしれないが、私は勉強の必要は「偉くなるため」でも、「大金持ちになるため」でもあってはならないと思っている。その前に「偉い」とはどういうことか、「何のために金持ちになりたいのか」を自らに問い続けねばならない。そうした終わらぬ問いを続ける学びが大切なのだと思う。
私たちはたまたま、この世界にこうして生を受けて、ほんの短いが、しかしかけがえのない一度きりの人生を生きている。若い子供たちには、そうした人生というものの不可解さ、不思議さを引き受け、多様な可能性に自分を開いて考え、悩み、学んで欲しい。無数にある仕事、生き方の可能性にまず目を開いて欲しい。様々な立場、職種に生きる人の中に、人間としての「偉さ」「輝き」を見出せるために、、若いときはさまざまな経験をして欲しい。さまざまな人と触れ合って欲しい。
以上、至って当たり前のことを書いてしまったかもしれないが、当たり前でないかもとも思ったので、書いてみた。「学ぶとは自分を鏡に映してみる」ことでもあろう。「自分を鏡に映す」学びは「自分の偉くなさ」の自覚を必ず導く(と思う)。では「自信の欠如」をもたらすのか。そうではない。「自分の偉く無さ」に自覚的な人は、静かな自信を手に入れるのではないか。饒舌でない、とてもとても寡黙な自信を。「自分の偉くなさ」「情けなさ」に立脚した「自信」というものがあるのだと思っている。
2010年9月7日 |
キャンパス日記・雑記 |
chappy(京大教育)
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教育実習に行ってきました。京都山科にある一燈園中学校という学校です。この学園はもともと一燈園という生活共同体が母体となっています。したがって一燈園の創始者西田天香の生活実践としての思想に基軸をおいた教育が試みられています。そのために、他校の教育実習とは違い、授業に先立って一燈園とは何かについて知的・実践的な理解を研修会で得ることが必要とされました。今回はその研修会について少し紹介します。
智徳研修会と呼ばれる三日間の研修会。参加者の多くは企業関係者でした。ここ一燈園は現在多くの企業関係者の方々の心身修養の場として活用されているようである。3日間の研修の二日目・三日目に「行願」「路頭」という実践的修行があり、ここ一燈園を特徴付けている。「行願」「路頭」は市街の家々を廻り、必要とされる仕事を請い、こちらからは一切報酬を求めず、相手様の気持ちから与えられたものがあれば、それを頂き、それのみを頼りに生活を営むという修行である。西田天香の生活実践のプチ体験という具合だが、貴重な体験をさせていただいた。私たちの体験はせいぜい数時間ですが、天香さんはそのスタイルで日々の生活を送っていたと考えると想像しがたい思いだった。
天香さんは著書で、「自分がなくなった時、全体が自分になる」と言っていて、一見容易に理解したような気になれる言葉だが、私はこの言葉の重みについて考えさせられた。
しかし、そんな生活実践の意義はどこにあるのか。しかもこの現代社会において。そう多くの方は思われるかもしれない。天香さんは商売や事業の展開をした末に「人と争わない生活は如何に可能か」をとことん追求しようとして、そこにたどりついたようである。
つい数日前、西田幾多郎がこの「一燈園」生活について言及した講演録を発見した。次回のブログではそれも読んだ上で、改めて一燈園について紹介できればと思う。
2010年7月6日 |
教育・受験関係の話題 |
chappy(京大教育)
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明日から教育実習に行って参ります。教科は英語です。
今日は授業で使用する教具を買いに、三条のロフトに行きました。
自慢の教具の一つ目は「卓上ベル」です。ファミレスのレジなどに置いてあって、
上から叩くと「チーン」て鳴る、あれです。英語科教育法の先生に薦められて買いました。
ウォームアップのクイズやグループワークで、答えのわかった人に先生の所まで来て、
わざわざ「チーン」と鳴らしてもらうというわけです。生徒にも動きが生まれていいのでは
と思うので、試してみます。
二つ目は超強力磁石です。小さいのにめちゃめちゃ強力な磁石(通常の3倍と書いてある)
を見つけてうれしくなりました。とにかくこの強力磁石を使用するために、「ピクチャーカード」
など黒板に貼り付けるものをこれから制作するつもりです。早く黒板に貼ってみたいです。
三つ目はホワイトボードのように使える紙状シート。100円ショップにありました。裏に厚紙を張って、
マグネットシートを貼りました。ここに毎授業のキーセンテンスなどをきれいに書いて黒板に貼って
みようかなと考えています。
では二週間、教育実習を頑張ってきます。次回のブログはその報告になろうかと思います。
2010年5月31日 |
京大関連情報 |
chappy(京大教育)
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先日、指導教官の先生にサインをいただいて、図書館にて先生の学生時代の修士論文を見させていただいた。そして、原稿用紙に万年筆でびっしり書かれた100枚の論文(註を入れて150枚以上)に、私はたいへんな興奮を覚えた。手書きの論文は当時としてみれば当たり前だろうが、私たちはあまりにパソコンで書いた文章に慣れてしまっているため、あのような大量の手書き文章に出会うと不思議な感覚に襲われるのかもしれない。
私はその論文をよみながら、その万年筆の文体や筆圧や古い焼けた原稿用紙を通して、数十年前の先生に対面している感覚を強く覚えた。100枚の論文の中には、至極慎重に筆を進めている箇所から、ざっと流すように筆を進めている所まで、「字」を通して著者のリズムや感情の起伏が伝わってくる。したがって論文の内容の展開とそうした起伏をシンクロさせながら、著者の思考を読み解くことも可能かもしれない。それから、パソコンで書くのと違い、「書きなおしが許されない」という書くことへの緊張感をも感じられる気がした。それでも間違った文字には、丁寧に紙が貼られ、その上から書きなおされていた。論文の内容だけでなく、まさに「血と汗の結晶」の論文だといえる。
私はこれから論文執筆に取りかかろうしているが、原稿用紙に書かれた論文にこうして触れられたことは、とても幸いな機縁だったと思う。数十年前の先生との対話を通して、気持ちを引き締めて「書く」ことに取り組みたいと思う。
そして、「手書きっていいね」。それが今回の簡単な結論。しかもそれを残しておいてずっと後から見なおすこと。そこにはパソコン以上の複雑なメディア機能が示される気がする。面白い可能性を秘めている。アナログの可能性。いや、アナログ賛美が過ぎると年齢がばれてしまうので、この位にしておこう。では。
2010年5月3日 |
キャンパス日記・雑記 |
chappy(京大教育)
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シリウスで家庭教師をはじめて、もう二年目に向かおうとしています。時の早い流れを感じます。
自宅学習においては、気持ちのメリハリをつけて机に向かうことが大事だなとつくづく感じています。だらりとした気持ちで長時間勉強してもケアレスミスをたくさんしてしまったり、いいアイデアも浮かばない。そのことを時々指導しているのですが、わが身を振り返ってもあまり偉そうなことはいえないなとよく思います。
時間をうまく使うこと、自分の気持ちをうまく切り替えること、自分の計画を自分でたてること、自分との対話で、その計画をうまく修正していくことなど、挙げると切りがありませんが、つまり、自学のマナーを体得することといっていいでしょう。この体得がなかなか難しい。私自身も今年度は「自学のマナーを体得すること」を念頭に過ごして参りたいと思っています。
2010年4月4日 |
家庭教師レポート |
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