kuriken(京大教育) さんの投稿記事

「分かる」と「できる」

授業をしていると生徒が「なるほど」とか「分かった」と言って理解が飛躍する瞬間がある。

そのような瞬間が訪れるたびに、やっぱり教える者としては心から嬉しくなる。

だが、そのような嬉しさも、一時のものでしかなかったのだという落胆にも似た感情に苛まされることがあるのもまた事実である。

あのときの「分かった」は、はたしてどこに行ってしまったのかと疑いたくもなる。

だが、よく考えてみれば、それも当然かもしれない。生徒が何かを「分かった」としても、そこから定着を試みなければ、決して「できた」にまで発展しない。

「分かった」状態で終っていれば、いつまでたっても「できた」にはならない。

しかし、「できる」ためには、絶対に「分かる」瞬間が必要なのだ。

教えることの難しさは、きっとこの辺にあると思う。

生徒が「できる」ようになるためには、最終的にはその生徒一人の地道な努力が必要であり、そこまで一緒に時間の限られた授業でたどり着くことはほとんどできない。

授業で目指すのは、生徒の「分かる」を実現することだ。

その「分かる」から「できる」へ生徒を送り出してやらなくてはならない。

一時の理解に押し留まることなく、その理解がその後の生徒の駆動力になるようにこちらが努めること、それは教えるということではないだろうか。

「分かる」がそのまま「できる」ではないということを肝に銘じなければならない。

ドリル式の問題をめぐって

算数や数学を教えていると、いつも基本問題はドリル式だ。

分数の計算や小数の計算がずら~っと並んでいる。

あるいは、方程式や文字式の問題が所狭しに並べられている。

このドリル式の問題には、おそらくそれを解く人にとっては賛否両論なのかもしれない。

単に手を動かして解き続ければいいし、その結果、それなりの満足感や達成感も得られる。

だが、それが極度につまらなく感じ、もっと頭を動かす問題を望む場合もある。

私はというと、どちらかというと、計算問題は泥臭く、手を動かし続けていくことに快感を覚えていたタイプだったが、そうでないタイプも当然いる。

思考力を問う問題を好み、それを楽しんで解くことはいいのだが、やはり基本ができてなければどうにもならない。

それで基本に戻れば、ドリル式が待っている。それをやるとなると、極度にやる気を落とすことさえ、人によってはあるだろう。

ドリル式は、特別良いものでも、悪いものでもない。

だが、「今は基本が大事」という判断から生徒をドリル式に縛り付ければ、生徒の大事な学びの芽を摘んでしまいかねない。

だが、思考力を使う問題に挑戦させたら、やはり基本のできていないことが判明する。

結局、私が言いたいのは、基本問題をどう提示するかということだ。

高度なレベルの問題をどのタイミングで提示するかということも大切だが、それ以上に基本問題の提示の仕方こそ、指導者はていねいに考えていくべきなのかもしれない。

とりわけ、ドリル形式の問題をめぐってはだ。

「難しさ」を教える難しさ

入試問題は、たしかに難しい!

本格的なものとなれば、なおさらだ。

だけど、「難しさ」にも色々ある。

まったく歯が立たない、悪問に近い「難しさ」もあれば

知ってる知識で充分解けるのに、問題の提示の仕方が実に見事なために

難しくなった問題もある。

こういった難しい問題を生徒にやらせるとき、いわゆる実践的な演習をさせるとき、どのようにしたら良い指導ができるのかは、本当に難しい。

生徒が直面した「難しさ」をいとも簡単に解き明かしてみせることが良い時もあれば、なぜその問題が難しいのかについて、語り明かしてみせることが良い時もあるだろう。

だが、重要なのは、小手先のテクニックを身につけさせるのではなくて、

「難しさ」にとことん付き合っていくだけの忍耐力を身につけさせることだと思う。

なんだが、陳腐な言い方だけど、ホントにそうだと思う。

そのためにも、「難しさ」を簡単に解きほぐしてしまうよりも、

「難しさ」を難しいままに体感してもらう。それにじっくりと付き合ってもらう。

その上で、種明かしも、いわゆる解説も意味をもってくるのではないかと思う。

興味関心に火をつける

先月と同じような内容になってしまうが、この一ヶ月、担当の生徒を

教えていてつくづく思ったことは、「カリキュラム通りに進める」ことが

実はその生徒の興味関心の芽を摘んでしまう場合があるということだ。

カリキュラムや教科書には、書かれていない深い部分を、核心的な部分を

時に生徒は聞いてくるものだ。それを単に教科書に載っていないから、あるいは

それは中学生になったら習うから、という理由で簡単に聞き流してしまったら

せっかくの興味関心に火をつけるチャンスを台無しにしかねない。

そんなもったいない話はない。

だから、生徒が発信してきた興味関心の発火点に、カリキュラムや進度のことは、しばし忘れて、この生徒の発火点にもうしばらく付き合っていこうと思う。

生徒の知的好奇心を刺激することを願って!

個に応じた指導

個に応じた指導。

そう言われてからすでに久しいが、それでもその実践はどれほど

うまくいっているものなのか。

学校教育のシステムの中で、どれほど個に応じて指導ができるのか。

集団を基礎単位とする学校では、それが事実上、有名無実化しているという

現状も、もしかしたらあるのかもしれない。

でも、家庭教師は、どうだろうか。一対一を基本とする家庭教師こそ

個に応じた指導の最たる実践なのではないか。

ならば、個に応じた指導とはどんなものか。そう考えいくと、すぐに生徒の興味関心にあわせた指導、という答えがでてくる。

実際は、これが意外に難しいのだが、その難しさの原因はもしかすると、カリキュラムに縛られている、ということがあるのかもしれない。

学校は、集団を相手にするから、一括にまとめて、順序良く体系的に教える

ほうが効率がよい。だからカリキュラムがある。

でも、個別指導は、その子に対してカリキュラムの順番がふさわしいのか

は分からない。カリキュラムどおりにやる方がいい場合もあれば、そうでない方がいい場合も当然ある。

そのへんの塩梅を、こちらが見て、判断する。ゆるやかにカリキュラムの枠を守りながらも、だいたんにその子の興味関心にぴったりなものを選びだす。

それがきっと、個に応じた指導であり、家庭教師だからこそ、カリキュラムに縛られずに、学習を展開する必要があるのではないか。

そうつくづく感じる、今日この頃。

2018年10月
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kuriken(京大教育)
京都大学教育学部所属、逗子開成高校出身。

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